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パール・アディクト二千年 真珠をめぐるヨーロッパの競争と養殖真珠の衝撃(Vol 2)

Text = Yamada Atsumi

山田 篤美  歴史研究者・美術史家。京都大学卒業、博士(文学、大阪大学)。忘れられた過去の歴史に脚光を当てる執筆活動を展開。著書に『真珠の世界史』(中公新書)、『真珠と大航海時代』(山川出版社)、『黄金郷(エルドラド)伝説』(中公新書)、『ムガル美術の旅』(朝日新聞社)など。


日本の養殖アコヤ真珠の登場

 そうした時期に、日本人が真珠養殖に成功したのだった。真珠産業の父、御木本幸吉は一八八八年に三重県英虞湾の海域を借り入れ、半円真珠ビジネスに乗り出していった。御木本の事業は地蒔式というもので、それは、数キロの重さの岩石を投入して海底を整え、半円真珠の核を入れたアコヤガイを海女たちが海の底で並べていくものだった。水中での農耕ともいえる作業である。二〇世紀初めには見瀬辰平たちがまん丸の真円真珠を作り上げるのに成功し、以来、日本の海から養殖の真円真珠が生まれるようになった。

 真珠養殖は、自動車や家電産業と違って、日本人が一から作り上げたビジネスモデルである。それは、アコヤガイが多数生息し、海女の伝統がある日本の海だからこそできたものだった。まさに日本の海の勝利であり、ジャパン・マジックだった。海外では真珠採りというと男性潜水夫の過酷な仕事というイメージだが、日本では若くて健康的な娘たちが海に潜っていたのも、欧米の人々を驚かせるのに十分だった。

 御木本は、一九一九年から養殖の真円アコヤ真珠をロンドンで販売するようになった。しかし、それを阻んだのが、ローゼンタールなどの欧米の真珠商、宝石商だった。養殖真珠の登場は、天然真珠の価格を暴落させるおそれがある。彼らは養殖真珠をニセ真珠と呼び、さまざまな妨害工作を実行した。御木本はそうした脅しに一歩も引かず、次々、訴訟を起こして対決し、日本の養殖真珠の素晴らしさを世界に認めさせることに成功する。

 だが、それに伴って、天然真珠の価格はやはり暴落していった。大恐慌も追い打ちをかけ、欧米の天然真珠市場は混乱した。世界最大の真珠の産地、アラビア湾の被害は深刻で、湾岸諸国は真珠採取業を断念し、石油業に転換していった。日本の養殖真珠の登場は、特権階級による真珠の独占を瓦解し、中東の産業構造も変える激しさを伴ったのである。その変革の大きさは、空気を読むのに熱心な今の日本人には想像できない話かもしれない。

 戦後になると、日本は真珠王国として君臨した。パリのモード界やハリウッド映画で真珠ブームが起こっていたが、真珠を生産できるのは、もはや日本だけだった。真珠は最高のジャパンブランドとなり、百ヵ国以上に輸出された。これまで真珠は特権階級が所有する高価で希少な宝石だった。しかし、日本の養殖真珠によって真珠は多くの女性の手に届くものとなった。世界の女性を幸せにした日本最大の発明品は養殖真珠だった。

左:エリザベス一世の肖像画。過剰な真珠がエリザベス一世の定番の装い。(Armada Portrait,1588年頃)
右:アメリカの大富豪夫人エディス・グールドの写真。何本もの真珠のロープをつけているが、今日でも通用する洗練された装いである。1890年頃。(J. Y. Dickinson, The Book of Pearls, 1968)


TOP画像 : 左:ヘンリエッタ・マリア王妃の肖像画(アンソニー・ヴァン・ダイク)右:真珠漁、マルガリータ島、ベネズエラ、1560 年代~1570 年代

Brand Jewelry 特別編集 パールより抜粋 *当サイトの情報を転載、複製、改変等は禁止いたします

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