宝石の順位を決めた古代ローマのプリニウス
Text = Yamada Atsumi
山田 篤美 歴史研究者・美術史家。京都大学卒業、博士(文学、大阪大学)。忘れられた過去の歴史に脚光を当てる執筆活動を展開。著書に『真珠の世界史』(中公新書)、『真珠と大航海時代』(山川出版社)、『黄金郷(エルドラド)伝説』(中公新書)、『ムガル美術の旅』(朝日新聞社)など。
自然の偉大さを思う時、私たちが想像するのは、青空にそびえる険しい山々や海に沈む真っ赤な夕日などだろう。しかし、世の中には自然の偉大さを宝石の中に見た人が存在する。それが古代ローマの博物学者プリニウスだった。
プリニウスはローマ帝国の要職を務めるかたわら、三十七巻の『博物誌』を寝る間も惜しんで書き上げた当代きっての知識人。紀元七七年に完成したこの本の最後のテーマが宝石だった。プリニウスは「私が手掛けた作品を完成させるには、宝石について議論することが残っている。自然の偉大さは、宝石というもっとも狭い領域に凝縮している……自然界に宝石ほど驚きの念をもたらすものは存在しない」と述べている。
私たちのイメージでは、宝石とは自然の対極に位置する人造の宝飾品であり、きらびやかに輝く宝石に贅沢の喜びや矜持の念を感じてきた。その宝石に自然の偉大さや自然への驚きを感じるというのは、ちょっと意外な発想といえるだろう。
プリニウスは『博物誌』の中で宝石の順位も定めている。彼によると、人間の財産でもっとも高く評価されるのがダイヤモンドで、その次がインドとアラビアの真珠である。三位はエメラルドやマラカイト(孔雀石)などの緑色の宝石、四位がオパールで、五位がサードニクス(紅縞瑪瑙)となっている。その後、プリニウスは順位を議論するのをやめ、赤い宝石や青い宝石などさまざまな宝石について語っている。
実は真珠が宝石一位
ダイヤモンドが一位と聞くと、私たちも納得するかもしれないが、プリニウスは、ダイヤモンドはどんな物質にも穿孔できるので需要が高く、鉄製の工具にはめ込まれると述べている。当時、インドでしか採れないダイヤモンドの流通量はわずかで、実用性が評価されていた。しかし、工具にはめ込まれたダイヤモンドは、「宝石」と呼べるだろうか。
したがって、実質一位の宝石はインドとアラビアの真珠となる。プリニウスによると、真珠や宝石を流行させたのはポンペイウスという政治家で、彼は凱旋行進時に真珠をはめ込んだ肖像画を披露した(図版1)。プリニウスは「何とこの肖像画が真珠で作られていたのだ。ここで打ち破られたのは質素禁欲であり、この凱旋行進を祝福したのは法外な浪費であった」と述べている。プリニウスは真珠のように金を食うものは女性にのみ意味があると語っているが、実際、当時の女性たちは真珠を二~三個耳につけて得意になっていたらしい(図版2)。
プリニウスが三位に置いた宝石がエメラルドなどの緑色の宝石だった(図版3)。これほど魅力的な色はない、私たちは若草や木の葉を眺めるが、はるかに大きな喜びをもって緑色の宝石を見ると語っている。目を酷使した後でも緑色の宝石を見ると、疲労感が回復するとも言っている。植物の緑よりエメラルドで目を癒すとは、さすがローマの贅沢である。
今日のエメラルドの代表的産地は南米コロンビアであるが、古代ローマ時代はアフガニスタン、エジプト、インドなどが産地だった。とりわけ、インドは真珠や宝石、コショウに恵まれた東洋の豪奢の代名詞だった。当時の人々の考えでは、富とはあっという間にこなごなになってしまう何かを所有していることだった。そのため、すぐに割れてしまう蛍石や水晶でできた酒杯などが好まれていた。プリニウスによると、人々はそうした酒杯にエメラルドをしずめて酒をちびりちびり飲んだが、それはまさにインドを手に入れた喜びだった(図版4)。私たちには思いもよらないローマの美学といえるだろう。
宝石の四位はオパールである。オパールは赤い石の火の輝き、アメシストの紫の閃光、エメラルドの海の緑色の特徴があることが評価されている。ノニウスという政治家は高価なオパールの指輪をもっていたが、それを所望したアントニウスの要望をはねつけて、元老院から追放された。プリニウスは一個の宝石のためにひとりの人間を放逐したアントニウスの粗暴さにあきれ、その宝石に固執したノニウスの頑迷さにもあきれている。
五位の宝石は赤褐色の層と白い層のあるインドのサードニクス。プリニウスはこの後、順位から離れ、黒と白の層のあるオニックス(縞瑪瑙)(図版5)や「カーバンクル」という赤い宝石、カーネリアン、黄緑色のペリドット、トルコ石、碧玉、ラピスラズリ、アメシスト、ヒヤシンス石などについて述べている。赤い宝石「カーバンクル」は、彼が語る特徴から、ルビーというよりガーネット(図版6)やスピネルだったと考えられる。ヒヤシンス石はサファイア説もあるが、ブルージルコンの可能性もある。プリニウスの時代にはルビーやサファイアは十分普及しておらず、オパールや今日では少々地味なサードニクスが上位になったのかもしれなかった。
左:(1)18世紀製作のローマ教皇の肖像画メダリオン。ポンペイウスの肖像画もこのような真珠で作られていたのだろうか。フランス国立図書館蔵。(HubertBari and David Lam,Pearls, 2009)中 : (2)ローマ時代のエジプト女性の肖像画。J・ポール・ゲティ美術館蔵。(NeilH Landman et al.,Pearls, 2001)右 : (3)エメラルドと真珠のネックレス。ポンペイ出土。ポンペイ考古学監督局蔵。(『ポンペイの輝き』展図録, 2006-2007年)
左:(図版4)水晶製の杯。ポンペイ出土。ナポリ国立考古学博物館蔵。(『ポンペイ展』図録, 2010年)中:(図版5)カメオ技法によるオニックス製の装飾品。ローマ時代。ウィーン美術史美術館蔵。(『週刊朝日百科世界の美術:ローマ美術II』,1978年)右:(図版6)ガーネットの金製ペンダント。ローマ時代。大英博物館蔵。(AndersonBlack,A History of Jewels, 1974)
宝石は輝きよりも色が重要
当時、ブリリアントカットはまだ発明されておらず、宝石そのものの色の美しさが重要だった。ローマ帝国の版図や交易圏が広がる中、世界各地からさまざまな宝石がもたらされていた。真珠に緑のエメラルドやマラカイト、赤や黄緑、青や紫などの多種多様な宝石。プリニウスにとって色とりどりの宝石は、まさに自然の偉大さであり、驚きでもあった。プリニウスという人はローマ人の贅沢で享楽的な生活に批判的であったが、鉱物としての宝石には大いに惹かれていたようである。考えてみると、宝石の色を愛でるのは、宝石愛好の原点かもしれない。
紀元七九年、プリニウスはナポリ湾基地の海軍提督を務めていた。 ヴェスヴィオ山が大噴火すると、視察に行き、そこで死亡した。ポンペイの町も火山灰で壊滅。ただ、その遺跡からは真珠やエメラルドのネックレス、各種宝石を使った金製の指輪、真珠で飾る女性像の壁画などが出土していて、プリニウスの記述を裏づけている。過去に日本で開催されたポンペイ展ではこうした真珠やエメラルドも展示されていたので、次回のポンペイ展が待たれるばかりである。
TOP画像 : プリニウスとその著作『Naturalis Historia』1669年版。
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