19世紀末、ジュエリーが変わり始めた頃の話 文=山口 遼
Written by Yamaguchi Ryo
今どういうジュエリーが求められているのか。ジュエリーは社会状況の影響を強く受ける。100年以上前に起こった変化を知ると、今が見えてくる。
19世紀の末から1920年代にかけて、ジュエリーの作り方、売り方に大きな変化が生まれた。その変化は、今日に至るまでのジュエリーの世界を大きく変えた。変化とは言っても、デザインとかアイデアとかの華やかな世界の変化ではない。もっと即物的な、実際の商売に深く関連した、あまり人目につかない変化である。宝飾史のなかでも、あまり気がつかない、取り上げられるとの少ない、この時代の話を少し書いてみたい。
量産が可能になり、広告宣伝と商品カタログが登場
19世紀の末、1890年代になると、宝石店の商売に根本的な変化が生まれる。それはジュエリーの売り方が、 受注販売から予定生産に変わったことだ。少なくとも1880年以前の宝石店では、ジュエリーは店先にほとんど並んでいなかった。店には店主がおり、いくつかの商品と素材が出ているだけで、すべてのジュエリーは顧客と主人との話し合いで作られ、売られた。多くの店には、デザインブックのようなものが用意されており、 それを参考にしながら決めたのだ。しかも、この時代、 厄介なことに客の多くは男性であった。つまり、男と男が話し合いで、女性の使うジュエリーを決め、発注し、買ったのである。だから今日でも、アンティークと呼ばれるジュエリーのまともな物は、ほとんどが一品物であり、 同じ物がほとんどないのはこのためである。
しかし19世紀も末になると、すべての面で大衆化が進む。ジュエリーの世界でもまた、大衆——とは言っても、今の大衆とは違う中産階級の人々だが ——のためのジュエリー が生まれてくる。製造面でも、電気を使うことが普通になり、プレス加工が登場し、酸水素バーナーが使えるようになる。こうした顧客の増加と製造面での機械化が進んだ結果、座して顧客を待つという商売よりも、売り手 側が自分のアイデアでジュエリーを作り、店先に陳列して客を待つという、現在の形態の宝石店が生まれたのだ。
当然のことながら、自分で作るとなれば、量産が当たり前のこととなる。量産とは言っても、今のように数百点を作るのではないが、一品物ではなくなる。同じ物が数点以上あるとすれば、次に起きることは広告活動である。 ジュエリーが一点しかないのなら、売れて終わりだから広告を打つ必要はほとんどない。この頃から、主に新聞を使った宝石店の広告が現れてくる。もう一つは、商品カタログの登場だ。私の手元にあるのは、ロンドンのボ ンドストリートで開業していたストリーター商会のカタログだが、1880年代から出ており、1890年代以降のものは堂々としたカラー印刷である。ここまで来れば、 今の宝石店とやっていることに違いはない。
1900年頃から第一次大戦までの十数年間は、先祖返りというか、少し時代が逆戻りする。英国ではエドワー ディアン、フランスではベル・エポックと呼ばれる、主に当時は新しい貴金属であったプラチナを使った、威風堂々という言葉がぴったりの重厚なデザインと作りのジュエリーが登場する。王侯貴族、大富豪だけが顧客であるという時代の最後の動きである。そのフロントラン ナーとなったのがカルティエをはじめとするグランメゾンの宝石店であった。とは言っても、グランメゾンもほかの小売店と同様に、自社で開発、制作したジュエリーを店頭に並べて販売するというスタイルに変化している。 この1890年頃から1920年頃にかけては、ジュエリーの歴史を語る場合、要注意な時期だ。上記のエドワーディアン、ベル・エポックのほかに、アール・ヌー ヴォーやアーツ・アンド・クラフツという言葉がこの時代史には出てくるし、一方では、ヴィクトリア時代そのま まの古めかしいジュエリーが大量に売られていた。恐ろしく多様な時代、それが 世紀末なのである。この時代はアール・ヌーヴォーだけ、と簡単にはいかないのだ。
女性は外で働き出すようになると、着用しやすいジュエリーを求め始めた
1914年から始まった第一次世界大戦は、ジュエリーの歴史、その市場にも巨大な影響を与えた。この戦争が従来の戦争と根本から違うのは、戦死者の数が桁違いに増えたことだ。欧州全域での戦死者、被害者の数は千万人を超えた。その理由は簡単、武器の発達である。機関銃、 手榴弾、タンク、毒ガスなど、それまでにない武器が戦場で使われたのだ。その結果として社会におきたこと、 それは男性がいなくなったことだ。男性がいなければ女性が進出する以外に社会は廻らない。
ここに初めて、女性の社会進出が始まる。ちょうど100年前、1915年前後のことだ。社会進出と簡単に言うが、長い人類の歴史のなかで、 女性が社会に出て働き、自分で収入を得て、それをある程度まで自分で自由に使えるという時代は、これが初めてのことなのだ。実は、最初のところで触れなかったのだが、1890年代頃までは、女性が独りで買い物に行くということはなかった。ほとんどの場合、エスコートと称する男性が一緒で、財布の紐も男性ががっちりと握っ ていた。(なんと良い時代ではありませんか。)その時代以前のジュエリーの多くは、男性が勝手に店に行って、 これまた店のオヤジと話をして出来上がったジュエリー を勝手に買って来て、女性に与えたのが普通であった。 いま、アンティークと呼ばれるジュエリーを見て気がつくのだが、この時代のジュエリーは、当時の女性が小さかった ——160センチで長身のほうであった——のにも関わらず、非常に男性的で大きな物がある理由はこのためである。それが第一次大戦を機に、がらりと変わったのだ。 これはジュエリーの商売にとって、非常に大きな変化で ある。言うまでもなく、社会に出てがんがん働く女性が、 それまでのように異様なまでに曲がりくねったアール・ ヌーヴォーとか、やたらと大きくて重いエドワーディアンなどのジュエリーを使える訳はない。
1915年頃から1930年代にかけて、アール・デコと呼ばれる、直線や幾何学模様を使ったデザインが主流となることはご存知の通りである。こうした変化をもたらしたのが、デ ザインのアイデア競争から生まれたのではなく、はなはだ即物的な、働く女性にとって使えないという事情から生ま れたことは、ジュエリーの歴史上初めてのことである。 このような変化は、1930年以降もそのまま続き、 今日に至っている。つまり、ジュエリーの量産と既製品の店頭販売、そして女性が、自分が使うジュエリーを自分で判断し、自分で買うという、今日のジュエリー界の常識は、この頃に完成したのである。そうした根本的な変化が、デザインに対しての美的判断とか、美の追求とかいう形而上学的な理由ではなく、即物的な形而下的な理由によるというのも、面白いものであり、記憶に値することでなはいだろうか。
山口 遼(Yamaguchi Ryo)
宝飾史研究家。(株)ミキモト常務取締役、(株)ジェム・インターナショナル代表、(株)リオ・イン ターナショナル代表を経て、現在は執筆活動に従事。『ジュエリイの世界史』『 すぐわかるヨーロッパの宝飾 芸術』『ブランド・ジュエリー30の物語─天才作 家たちの軌跡と名品─ 』『 TOP JEWELLERS of J A P A N ─ 日本のトップジュエラー』 など著書多数。
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『Brand Jewelry』(雑誌)の記事を再編したものです。
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