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パール・アディクト二千年 真珠をめぐるヨーロッパの競争と養殖真珠の衝撃(Vol 1)

Text = Yamada Atsumi

山田 篤美  歴史研究者・美術史家。京都大学卒業、博士(文学、大阪大学)。忘れられた過去の歴史に脚光を当てる執筆活動を展開。著書に『真珠の世界史』(中公新書)、『真珠と大航海時代』(山川出版社)、『黄金郷(エルドラド)伝説』(中公新書)、『ムガル美術の旅』(朝日新聞社)など。


 歴史において真珠の正統はアコヤガイの真珠であった。美しい光沢と完璧な丸さは他の真珠の追随を許さず、しかも1万個の貝から1.5個という高い割合で真珠が出た。ただ、その産地は世界にわずかしか存在しなかった。アコヤガイは南の海の岩礁性の海底に生息しているので、危険な海の底まで素潜りできる潜水夫がいることも真珠の産地になる重要な要素だったからである。

 古代ローマ時代には、アコヤ真珠はインドとアラビアの海域からやってきた。アラビアの海域ではクロチョウ真珠もごく稀に採れることがあった。古代ローマのプリニウスは、こうしたインドとアラビアの真珠を絶賛。彼は、真珠は海に潜って採ることを知っていたようで、それを獲得するのに命を賭けねばならないという贅沢によって、最高の満足が得られるので、真珠は貴重品の中で最高のものであると、『博物誌』の中で語っている。

 人が命を賭けたから贅沢というのは、いかにもヨーロッパ的な発想である。確かにその贅沢品は、そう簡単には得られなかった。古代ローマ帝国は、コショウに熱狂したことで有名で、インドのコショウの産地からローマ金貨が出土しているが、それより多くの金貨が出ているのが、アコヤ真珠の産地だったインド東南部のマンナール湾岸である。古代ローマ人は貴重な金貨を持ち出して、やっと真珠を手に入れたことがわかるのである。

 7世紀を過ぎると、イスラーム勢力の台頭で、ヨーロッパ人はオリエントから遠ざかり、この地の情報にうとくなっていた。そうした中、制作されたのがマルコ・ポーロの『東方見聞録』だった。13世紀末のヴェネツィア商人によるこの本は、オリエントのどこにどんな特産品があるかを列挙した大変役立つ情報本だった。ジパング島(日本)についても述べていて、黄金と真珠が豊富にあると語っている。よく「黄金の国ジパング」というが、正しくは「黄金と真珠の国ジパング」なのである。

新世界の真珠狂騒曲 

 『東方見聞録』を愛読していたのが、クリストファー・コロンブスだった。彼は西回り航海でオリエントを目指すという大胆な計画を立てており、日本に最初に到着する予定だった。そのため、コロンブスがもっとも期待していた財宝は、当然、真珠と黄金だった。

 1492年、コロンブスは大航海に乗り出したが、日本には到着できず、真珠も入手できなかった。しかし、1498年の第3回航海で南米のベネズエラに到着した。実はベネズエラの沿岸部こそが、もうひとつのアコヤ真珠の産地だった。ベネズエラの先住民たちはアコヤ真珠で鼻輪やネックレス、ブレスレットを作り、裸体を飾っていたのである。コロンブスの一行が鈴やガラス玉などの安物の品々を差し出すと、彼らは喜んで真珠と交換してくれた。コロンブスはベネズエラで宝の山を見つけたのだった。

 この噂が広まると、ベネズエラの海岸には真珠を求める多くのスペイン人が押し寄せることになった。彼らは物々交換だけでなく、先住民に攻撃をしかけ、彼らを拷問や殺戮することで、先住民の真珠をことごとく奪っていった。

 当時、真珠の値段はどれぐらいだったのだろう。実はこの時期の文献を調べると、真珠1個の値段は2389マラベディだったことがわかる。大航海時代では新世界の先住民も奴隷として売却されたが、その値段は5000マラベディ。つまり、真珠2個の値段が、奴隷ひとりの値段とほぼ同じだった。衝撃的な価格といえるだろう。

 さて、スペイン人は先住民の真珠がなくなると、今度はベネズエラの無人島に住みついて、海からアコヤガイを集めるようになった。ただ、スペイン人が潜ったわけではなかった。素潜りが上手なバハマ諸島の先住民を拉致してきて、真珠採りに従事させた(図版1)。彼らはカヌーで水深6~8メートルの沖に連れていかれ、日の出から日没まで真珠貝を採らされた。水面に出て息継ぎをしていると、早く潜れと棍棒で殴られた。

 16世紀の聖職者ラス・カサスは『インディアス史』の中で、真珠採りの「インディオ」は日々の生活の大部分を水の中で息をとめて過ごすため、体を壊し、次々死んでいくと語っている。そのため、スペイン人はバハマ諸島で人間狩りを繰り返し、真珠採りに投入し続けた。こうしてバハマの先住民は絶滅したのだった。私たちは、真珠採取によってひとつの民族が死に絶えたという壮絶な歴史があることも知っておく必要があるだろう。

左:ベネズエラの真珠採りを描いた16世紀のイラスト。先住民が海に飛び込む姿も描写されている。(Theodor de Bry, Americae, Pars Quarta, 1594)

右:マンナール湾での真珠採りの様子。インド対岸のセイロン島側。潜水夫は命綱をつけて海に潜る。1926年。(The National Geographic Magazine, Feb. 1926)

フランシスコ・ザビエルと真珠採りの民

 オリエント世界でも事態は大きく動いていた。1498年のバスコ・ダ・ガマのインド到着で、ポルトガル人がインド洋に登場するようになった。彼らはアラビア湾の島々を征服し、この地の真珠を入手。さらにインドの真珠の産地、マンナール湾岸にも目を向けた。

 当時、マンナール湾岸には真珠採りの民として有名なタミル系のパラワス人が暮らしていた。海に潜り、真珠を採れるのは彼らだけなので、インドの諸王朝がパラワス人を支配しようと侵略行為を繰り返していた。ポルトガル人もパラワス人の支配を試みるが、彼らの切り札となったのがイエズス会のフランシスコ・ザビエルだった。

 1542年、ザビエルはインドに到着し、マンナール湾岸で布教活動に乗り出していった。彼はきわめて精力的な人で、タミル語に訳した福音を暗記して、鉦を鳴らしてパラワス人の村々を回り、たちまち数万人のパラワス人を改宗させるのに成功した。

 インドの真珠採取は春頃、1ヵ月間行われる(図版2)。その時にはポルトガルの軍艦も出動してパラワス人の真珠採りを擁護した。採れた真珠は、ポルトガル国王、指揮官と兵士たち、イエズス会、パラワス人潜水夫たちで厳密に四等分した。ポルトガルは暴力ではなく、真珠採りの民をキリスト教化することで、インドの真珠を入手したのだった。

 1549年、ザビエルは日本の鹿児島に上陸した。彼は2年で離日したが、イエズス会はその後も活動を続け、気がつけば、肥前国大村の大名、大村純忠を改宗させ、長崎を領有するまでになっていた。九州北西部の海は日本のアコヤ真珠の大産地で、海人文化も発達していた。イエズス会が拠点にしたのは、そうした真珠の産地だった。彼らは九州沿岸部の住民のキリスト教化にも熱心だった。はたしてイエズス会は、インド同様、日本の真珠も狙っていたのだろうか。真珠の視点で考えると、少々気になる史実である。

Vol 2に続く


TOP画像:左から/フランシスコ・ザビエル/マルコ・ポーロ/クリストファー・コロンブスの肖像画

Brand Jewelry 特別編集 パールより抜粋 *当サイトの情報を転載、複製、改変等は禁止します

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