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冒険宝石商タヴェルニエのオリエント大旅行

Text = Yamada Atsumi

山田 篤美  歴史研究者・美術史家。京都大学卒業、博士(文学、大阪大学)。忘れられた過去の歴史に脚光を当てる執筆活動を展開。著書に『真珠の世界史』(中公新書)、『真珠と大航海時代』(山川出版社)、『黄金郷(エルドラド)伝説』(中公新書)、『ムガル美術の旅』(朝日新聞社)など。


 ワシントンのスミソニアン博物館が所有する青く輝くホープダイヤモンド(図版1)。この美しいダイヤにはおどろおどろしい逸話がある。17世紀の冒険宝石商タヴェルニエ(図版2)がこのダイヤをインドの仏像から盗んだために、ダイヤの呪いが降りかかり、彼は野犬に食われて死亡。その後の所有者も次々不幸に見舞われた。そのため、ついに博物館に保存されることになったという。
 しかし、タヴェルニエの逸話は、このダイヤモンドを売るためにカルティエ社が20世紀初めに作り上げた虚構だった。ダイヤの呪いのせいにされたタヴェルニエはあまりに気の毒なので、彼が記した紀行文『ジャン・バティスト・タヴェルニエの6回の旅行』(図版3)をひもといて、彼の名誉回復を図ることにしよう。

オリエントへの大旅行

 タヴェルニエは1605年、パリのプロテスタントの家に生まれた。父親は地理学者で、叔父は地図製作者だった。こうした環境により、タヴェルニエは早くから世界を見たいという思いを持っていた。22歳までにヨーロッパ各地を回り、26歳でトルコやペルシアに旅行。そこでトルコ石を買いつけたのが、おそらく彼の宝石商としてのキャリアの始まりだった。
 結局、タヴェルニエは63歳で旅を終えるまで、6回オリエント旅行を敢行。トルコ、ペルシア、インド各地などを転々とした。一回の旅行で数年費やし、6回の旅行を合計すると、何と28年間オリエントに滞在していたことになる。しかも、海路による一回の帰国を除くと、すべて陸路での旅行だった。まさにオリエントで人生を送った宝石商といえるだろう。
 タヴェルニエのオリエント旅行の大きな目的は、ダイヤモンドの入手だった。彼が活躍した十七世紀には、ブラジルや南アフリカのダイヤはまだ発見されておらず、インドが主要な産地だった。ただ、ダイヤモンド鉱山はデカン高原の奥地にあり、非常に危険という噂が立っていて、多くの商人たちは足を踏み入れるのを躊躇していた。しかし、タヴェルニエは果敢にダイヤモンド鉱山を訪問した。
 彼が訪れたひとつの鉱山では、王から許可を得た現地の商人たちが一定の区画を与えられ、50人、あるいは100人の鉱夫を雇ってダイヤモンドを探していた。鉱夫たちは隙があれば見つけたダイヤを飲み込んで隠そうとするので、十数人の監視役が目を光らせていた。ここでは王に二パーセントの売上税を払えば、取引は自由に行えた。むしろ問題は王の役人たちが取引を厳密に監視することで、タヴェルニエが持参した金貨もしっかり監視されていた。タヴェルニエは、彼自身の取引についてはあまり明確に語っていないが、かなりのダイヤモンドを購入していたものと推測される。
 ダイヤモンドの取引は相対取引も少なくなく、身をやつした人が見事なダイヤをターバンやベルトに隠し持ってきて、こっそり売買することもあった。こうして得たダイヤモンドは、タヴェルニエの旅の切り札となった。オランダやイギリスの東インド会社の社員たちに売却したり、旅の便宜を図ってもらうために贈与したりするだけでなく、インドやペルシアの王や貴族たちとも積極的に取引した。
 当時のオリエントの王侯貴族たちには、彼ら同士の情報ネットワークが存在した。マスカット王が所有する美しい真珠をムガル皇帝が使者を遣わして所望したが、結局、断られたという話などはすぐに話題になった。そのため、タヴェルニエのようにオリエント各地の宮廷を訪問する宝石商が現れると、取引ばかりでなく、自分の宝石コレクションを自慢したり、他の王たちの宝石事情も熱心に聞いたりしたようである。タヴェルニエの贈り物を喜んだペルシアの王は彼に名誉の衣装を授与している(図版4)。
 そうしたタヴェルニエのオリエント滞在のハイライトといえるのが、ムガル皇帝アウラングゼーブの宮廷で彼の宝石コレクションを見る栄誉が与えられたことだろう。タヴェルニエが小部屋に案内されると、王の家臣がビロードの布を敷いたトレイにダイヤや真珠、ルビーなどの宝石をのせてもってきた(図版5)。すべての宝石が確認のために三回数えられ、明細が作られた。その後、タヴェルニエは宝石を手に取り、重さを図り、挿絵を作ることが許された。タヴェルニエは『6回の旅行』でこの時見た皇帝の宝石について記しているが、それは宝石史では欠かせない貴重な情報となっている。

ルイ14世とのダイヤモンド取引

1668年、タヴェルニエはオリエントからパリに戻り、6回目の旅行を終えた。帰国を聞いたルイ14世は、タヴェルニエを宮廷に招き、旅の話を語らせた。タヴェルニエはこの時、オリエントから持ち帰った大粒ダイヤ40個、小粒ダイヤ1200個を王に売却。その中で最大のダイヤがスミレ色のダイヤで、彼の『6回の旅行』の挿絵に描かれている(図版6)。このダイヤを削り直したものが、ホープダイヤモンドと考えられている。ルイ14世はダイヤモンドを流行させた人であるが、そこにはタヴェルニエの貢献があったのである。
 実際、ルイ14世はタヴェルニエとの宝石取引をいたく喜んだ。タヴェルニエは男爵に叙せられ、スイスのオボンヌの城主となった。彼はこの城主の時期に『6回の旅行』などの紀行文を出版。本はベストセラーになった。
 しかし、タヴェルニエの人生はこれだけでは終わらなかった。80歳の時に爵位と城を売却。時代がプロテスタントに不利な状況になりつつあるのを悟ったからだと言われている。その2年後にオリエントを目指し旅行に出るが、旅の途中で不帰の客となった。タヴェルニエ84歳だった。19世紀になると、タヴェルニエ研究家がモスクワで彼の墓を発見した。
 タヴェルニエが会ったインドの皇帝アウラングゼーブ(図版7)もルイ14世も歴史の重要人物である。東西の雲の上の君主たちがこぞって一介の宝石商に会いたがり、彼に栄誉を与えてきたのは、宝石商冥利に尽きることではないだろうか。タヴェルニエはダイヤモンドに呪われたどころか、彼が冒険で入手したダイヤがもたらす幸運に恵まれた人だった。

左:ペルシアの王から授与されたオリエントの衣装を身につけたタヴェルニエの肖像画。右 :  1676年にパリで出版された『ジャン・バティスト・タヴェルニエの6回の旅行』の表紙。

タヴェルニエがルイ14世に売却した見事なダイヤモンド20個の図版。左下にAのダイヤは美しいスミレ色と書かれている。図版は『6回の旅行』の英訳本に挿入されたもの。

TOP画像 : 左:タヴェルニエ74歳の時の肖像画。右:スミソニアン国立自然史博物館が所有する青色のホープダイヤモンド。タヴェルニエのスミレ色ダイヤモンドをカットしたものと推定されている。

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